SSブログ

軍師官兵衛のキャスト 加藤清正役は誰?

スポンサーリンク




軍師官兵衛の加藤清正役のキャストは誰?ということについて書いています。

軍師官兵衛も中盤に入り、いよいよ面白くなってきました。

前々回で荒木村重(田中哲司)に囚われてしまった官兵衛。

前回の放送では座敷牢から土牢に移されてしまい、さらに過酷な状況に!!



いったいどうなるのか!?(まあ次回救出されるんですけど)




軍師官兵衛ではキャストが気になる人も多いみたいで、最近では加藤清正や森蘭丸のキャストは誰?と検索をかける方が多いようです。




加藤清正はいまのところ少年時代なので名前は「虎之助」です。



演じているのは相馬眞太くんです。

相馬しんた.jpg

http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp550954より引用

1999年生まれ

八重の桜では会津の少年兵役として出演していたそうです。






そして加藤清正のキャストですが・・・いまのところ不明です。






加藤清正と黒田官兵衛はそこまで深い関わりはない(おなじ秀吉の家臣ではありますが)ので、加藤清正としての登場シーンは少ないのかもしれませんね。




福島正則と並び「賤ヶ岳七本槍」として有名な加藤清正。





福島正則よりもクレバーな印象がありますが、実際どのような生涯だったのでしょうか。





加藤清正はいわゆる秀吉の「子飼い」です。

幼少の頃から秀吉に仕え、秀吉のもとで息子のように育てられました。

それだけに秀吉への忠誠心は並々ならぬものがあります





加藤清正が歴史の表舞台に登場するのは、先程も触れた「賤ヶ岳七本槍」。




信長亡き後の後継者を決する戦いの一つ、秀吉VS柴田勝家の賤ヶ岳の戦いで加藤清正は大活躍。




他にも活躍した6人の秀吉の家臣とあわせて「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれます。





その後も武功を重ねた清正は肥後国(熊本県)の半分を秀吉に与えられるほどに出世。




清正は秀吉が行った朝鮮出兵でも大活躍し、朝鮮で動物の虎を退治したというエピソードも。






しかし秀吉が亡くなると、清正はおなじく秀吉の家臣だった石田三成と対立します。



朝鮮出兵で最前線で戦っていた清正と、国内に残っていた三成。



輸送や戦略方針について大いに意見に隔たりがあったようです。





秀吉の一人息子・秀頼を盛り立てていこうとする加藤清正でしたが、あまりにも三成が嫌いすぎて三成と敵対する徳川家康に従うようになります。

(このとき清正は、三成を倒した後は家康が秀頼をサポートしてくれるだろうと思っています)




こうして加藤清正は

三成VS家康の「関ヶ原の戦い」では

家康側の勢力として九州で三成側の勢力と戦い、戦功をあげます。




ちなみにこの時の黒田官兵衛も家康側の勢力として九州で活躍しています。



関ヶ原の戦いの後、家康から肥後国全土を与えられ52万石の大大名となった加藤清正。

(秀吉の息子・秀頼はまだ生きているのですが、全国の大名家の配置替えや領地の増減は家康が勝手に行える状態になっていました)



肥後国の中心として、加藤清正が築いた熊本城はあまりにも有名です。





さて、天下取りを目指す家康の次の標的は当然大阪城にいる秀吉の息子・秀頼となります




一応は家康に従っているとはいえ、豊臣家への忠誠心は揺らがない加藤清正。



加藤清正は秀頼をバックアップし、秀頼が家康と会見するときにはボディーガードとして同行したりしています。




家康も清正が生きているうちは秀頼に手を出すことができませんでしたが・・・・



清正は1611年に病気でこの世を去ります(享年49)





豊臣家が「大坂の陣」で滅ぼされるのはこのわずか5年後のことです。



清正が亡くなったのと同時期に、同じく秀頼をバックアップしていた浅野幸長も亡くなっていることから、清正は家康に殺されたのでは?という説は根強く残っています。

果たして真相はどうなんでしょう?

(漫画「あずみ」では、清正は主人公あずみ(家康に仕える暗殺者)に殺されます)





ちなみに清正の作った熊本城は、明治時代にその名城っぷりを発揮します


熊本城.jpg



その戦いが西郷隆盛が明治政府に対して起こした反乱

西南戦争

です。




幕末~明治にかけてのカリスマ西郷隆盛が起こした反乱だけあって、日本中の士族(=元武士)が参戦。




西郷軍は13,000人に膨れ上がります。

対する明治政府軍は3,500人。





明治政府軍は援軍が来るまで熊本城に立て篭る作戦をとります。




西郷軍は熊本城を包囲し攻撃を開始します。


しかし熊本城はびくともしません。


清正の築城技術は250年経っても健在だったのです。




そうこうしているうちに政府軍の増援部隊が到着。




西郷軍は熊本城から退却。


最終的に西郷隆盛が鹿児島で自決することで西南戦争は幕を閉じます。




ホントかウソかしりませんが、西郷隆盛は西南戦争について


「われわれは政府に負けたのではない。加藤清正公に負けたのだ」

と話したんだそうです。




ちなみに熊本城の天守閣は西郷軍の攻撃が始まる前に謎の火災で燃えてしまい、現在の天守閣は鉄筋コンクリート作りです。


残ってたら絶対国宝になっていたでしょうに、もったいないですねえ。


スポンサーリンク



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。